2011年4月30日土曜日

これがいま人気沸騰の自在型ミニハウスだ!

大塚金属工業の自在ミニハウス



開発の経緯

農作業の苦労
農作業は自然に左右されます。風雨、温度の確保と柔軟な対応が必要です。気候への対応がうまくいかず、納得のいく収穫ができず意欲がわかないというのが現状かと思います。また、市販のハウスの部材を使い試行錯誤しても耐久性、耐蝕の面、更には予想以上の時間と労力を費やすことになりかねません。

農村の現状
日本の経済状況とともに収益性のない農業は見放され、各所に作付を放棄された畑地が点在しております。農家の家の周りにある自家用畑地さえも高齢化により作付けされていない所が見られるようになりました。

地域活性化、セカンドライフへの想い
野菜や花などの趣味の園芸が年間を通して楽しむことができれば、農地の有効活用や退職後のセカンドライフにも貢献できます。ミニハウスでの野菜栽培をきっかけに多種多彩の植物栽培が出来たら農地の保全にも貢献できます。

理想のミニハウスがない
園芸農家が必要とする本格的な温室ハウスは必要ではないが、安価で耐久性や耐蝕性にも優れ簡易に畑地にセットでき、更に大きさも適当な(2坪)程度のハウスがないか。冬から春先の温度確保・梅雨時の雨よけ・収穫時期の鳥害の対応、また温度の確保や作物の背丈を考慮するとハウスの高さも自由に設定できたら便利ではないでしょうか。

★先着30名様は定価36,000円+別途送料よりもお安く提供します、とのことですので、興味ある方はぜひお問い合わせください。

なお、高さ調節部の改良により、発送まで少しのお時間をいただきたいとのことです。


★ミニハウスについてのご質問は電話、FAX、Emailで受け付けております。
お気軽にお問合せください。

有限会社大塚金属工業
〒940-0013 新潟県長岡市原町1丁目4-2 TEL:0258-24-3312 
mail: info@otsukakinzoku.jp





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2011年4月29日金曜日

鳥取・奥大山で原木しいたけ栽培に夢を賭ける



「SAC 中尾 椎茸屋=代表・中尾和仁さん」は鳥取県・奥大山の江府町で椎茸と干したけのこの生産・販売をしています。

鳥取県ふるさと認証食品の乾し椎茸「中尾さんちの乾椎茸」と干したけのこ「干しの王子様」の認証を受けています。

私が「SAC 中尾 椎茸屋」に注目したのは空気と水を大切にして自然環境を守ろうという姿勢であった。中尾和仁さんはこう続けた。「自然環境に配慮しながら生産活動です。

これまでは、いいしいたけを栽培することだけを考えていましたが、今は昔と大きく状況が変わってきています。そこで食の安全や安心、そしてこれからの食のあり方を考えたとき、その時代のニーズや環境問題を意識することなく生産活動は出来なくなりました。

こうした考え方で栽培に取り組むようになってから、これまでになかった素晴らしい考え方の方々とたくさん出会えるようになりました。そこで多くの知恵と気付きをいただくことができました。そして実際に消費してもらったみなさんにホンモノの味と感動を味わってもらいたいという願いで栽培に取り組んでいます」という。

「SAC中尾椎茸屋」はTEAS(テス)鳥取県版環境管理システムに登録された。TEASとは鳥取県版環境管理システムで、
Tottori prefecture Environmental Audit and Scheme
(鳥取県)         (環境)     (監査)   (計画)
の略称で、県内の中小企業等の環境配慮活動への取組みを容易にするため、鳥取県が一定の基準を設け、環境配慮活動を審査登録・公表する独自の制度として、鳥取県版環境管理システム(愛称『TEAS(テス)』)を創設し、多くの県民の方々が取組んでいる制度。

ところで中尾さんにズバリしいたけの原木栽培と菌床栽培の食味上の違いを質問すると、「いい悪いではなく魚にたとえると天然ものと養殖もの」の違いだと説明してくれた。

(写真:SAC中尾椎茸屋・代表の中尾和仁さん)

 さて日本では「しいたけ品質表示基準」で、食品としての「しいたけ」を「しいたけ菌の子実体であって全形のもの、柄を除去したもの又は柄を除去し、若しくは除去しないでかさを薄切りにしたもの」と定義している。

古来日本では古くから自生していたものの、栽培は不可能で自生したものを採集するしかなかった。その一方で精進料理において出汁を取るためには無くてはならないものであった。しいたけは和食のだしの三要素ともいわれる。

江戸時代から、原木に傷を付けるなどの半栽培が行われ始めた。しいたけ菌が原木に付着してしいたけの生育が見られるかどうかは全く不明であり、しいたけ栽培は成功した場合の収益は相当なものであったが、失敗した場合は全財産を失うほどの損害となる一種の博打だった。

人工栽培の方法は20世紀に確立されたが、最近では原木栽培または菌床栽培されたものが市場流通品のほとんどを占める。そこで商品に必ず原木栽培品か菌床栽培品かを表示することが義務付けられている。

いまでは人工栽培の方法が諸外国にも普及しているものの、日本産干し椎茸は本場ものとして台湾、香港などで人気があり、各地の業者が輸出をしている。

原木は秋から初冬に伐採し、過度な乾燥を避け保管し翌早春に種菌を接種をする。種菌を接種した原木は、約1年を森林の下に寝かせ菌糸体の蔓延を待 つ。種菌の接種から16~18ヶ月経過後にほだ場と呼ばれる栽培場所に移し、柵に立てかけるように原木を並べて子実体の発生を待つ。子実体が発生するの は、通常種菌を植え付けてから18~24ヶ月後で、3~4年間収穫(採集)が可能である。

品種改良が進んでおり、しいたけが発生するのに最適な時期はそれ ぞれの品種によっても異なっている。その地域の気候に最も適した品種を選択すべきだろう。

しいたけの生産量の多いのは大分県、徳島県、鳥取県、熊本県、宮崎県、群馬県、栃木県、静岡県、長崎県、岩手県、秋田県などで栽培が盛んである。干し椎茸は大分県が、生椎茸は徳島県が日本一の産地である。

近年は国産しいたけが見直され、国産品の需要は増加傾向にあるが、生産コストや労働力の不足などの問題から衰退しつつある。特に、原木伐採に関わる労働力は高齢化などにより急速に減少し、原木不足が深刻化している。


中尾さんは鳥取県西部から山陰地域をターゲットに販売に取り組んでいる。
原木しいたけ栽培は確かに生産者の高齢化や安価な輸入物に押され、生産者・生産量とも激減して来ている。原木しいたけが再度本来の適正価格で流通することを願って、後に続く人のために安くは卸さないと奮闘中だ。


価格の目安は100gが300円、200gが600円、300gが900円。 会員、リピータの方等はいくらか安くなる。

先日、2パックが中尾さんから届いたので、スーパーで買ってきた菌床栽培しいたけと食べ比べをした。食感といい香り食味では比較になりません。肉厚の歯ざわりのいい感触、芳醇な風味が違いました。やはりホンモノの味は違うなぁと思いました。価格の安いものにまともな商品ができるわけがありません。消費者はそのことに気付きだしたのではないでしょうか。

また冬季季節限定ですが、雪かぶりシイタケ はいかがですか? 雪の中で健気にそして逞しく育ったしいたけは最高に美味しい。昨年末からホダ場は記録的な大雪になった。そんな雪の中でも115菌のしいたけは脈々と生き続けた。ぜひ一度、雪かぶり野菜同様寒さの中でたっぷり“うまみ”を蓄えたしいたけを是非一度ご賞味下さい。








2011年4月28日木曜日

初夏を感じさせる宮崎の特産果実「日向夏」


日向夏、これは宮崎を代表する特産果実だ。初夏を感じる薫風のなかで、日向夏を食すると口のなかの爽やかさが格別だ。

(写真:フリー百科事典から)

ミカン科ミカン属で雑柑類に分類される常緑低木の柑橘類だ。

日向夏は文政年間に宮崎市赤江の真方安太郎宅で偶発実生から発見された。

宮崎原産だが、明治中期以降は全国的に知られ、高知で土佐小夏、静岡、福岡、愛媛ではニューサマーオレンジの名で生産されるようになった。

明治時代末期に宮崎県の産業として栽培が盛んとなるが、「日向夏」とブランド名がついたのは、昭和47年になってのことだ。

日南市、清武、高岡、綾町を中心に毎年2,600トン前後生産され、少核系、早生(わせ)系、高糖系の優秀な系統選抜が進んで苗木の増殖も始まった。

果実はやや下ぶくれの球形で約200グラム。外皮は黄色。果肉との間に厚めの白い内皮があり、果肉は淡黄色で果汁はたっぷり、酸味も適度で香気があり、 風味に優れている。

本来は晩春から初夏の果物だったが、栽培技術の発達でハウスものは正月から出荷され、露地もののはしりも2月中旬の早さとなった。4月中旬ごろまで。4月末になると花芽をつけてくる。

タネが多くあるのが難点とされていたが、平成4年から温室での「種なし栽培」に取り組まれ、「種なし日向夏」ができるようになった。

県でもみやざきブランド推進事業として取り組み、加工果汁用としても奨励されている。このところ栽培面積、収量ともに漸増傾向にある。

平成19年産は栽培面積182ha、収穫量2149トンで同様にみていくと20年産は190ha、2293トン、21年産は187ha、2719トン、22年産は197ha、3153トンと漸増傾向で推移している。同様に農協の共販も漸増傾向で推移しているようだ。

宮崎市清武で「日向夏」栽培に取り組む私の友人・谷村正さんも日向夏に惚れこみ力を入れているひとりだ。50アールの園地で35アールほどで栽培に取り組み、約9トンの生産量がある。谷村さんは「10アールで3トンの収穫量を目標にしていますが、なかなか計画どおりにいきませんよ」と栽培の難しさを語る。

ところで谷村さんはかつて全農、宮崎県経済連で仕事をした経験があり、販売に関しては全国展開を睨んだ戦略が組める恵まれた立場にある。「日向夏は宮崎を代表する特産果実ですから、消費宣伝をもっと工夫する必要があります。東京の友人にも手紙を添えて自分の作品として送っていますよ」と草の根活動も忘れない。


★日向夏の 食べ方はリンゴの皮をむく要領で黄色い外皮を薄くむき、白い内皮を残す。

種のある中心部をさけるように7つか8つ、縦にそぎ切りする。とびきりの日向夏は 砂糖もはちみつもいらない。


他の柑橘類とは違い、果実の表皮における白い部分(内果皮、アルベド)もそのまま食べられるので、 皮の黄色い表面(外果皮)だけを薄く剥いで食べるほうがよい。 この白い部分はふかふかとした食感であり、苦みや渋みはない。これは剥かないでください。

「日向夏」の食べ方

★ そのまま食べたり(黄色い外果皮は剥く)、果汁を絞ってジュースにする。
★外果皮を剥いた後に、ふかふかの白い皮を多く残すようにスライスし、砂糖をかけて食べる。
★刺身にし、醤油をつけて食べる。
★太巻きの中の具や餃子の具にする。宮崎県発祥と言われるレタス巻きの具にも使用される。
★ 皮を利用してマーマレードにする。
★一般的な柑橘類と同じく果実酒にする。







2011年4月27日水曜日

わずか40%の食糧料自給率で、2000万トン余の残飯が・・・













 わずか40%の食糧料自給率で、2000万トン余の残飯が・・・

 

 

 

 





 毎日新聞は以前、企画特集で「食育を知る・考える」という紙面で「ショクイク」を世界へ発信しました。

目玉は服部栄養専門学校長と藤野食育料理研究家の対談であった。そのなかで服部先生は重要な指摘をされた。

「子供がご飯を食べ残しても、いまの親は注意をしない。箸を正しくもてる子供が非常に少ないのに、親は知らん顔です。米国の家庭を見て来て感心した ことがあります。

食事のときはテレビを消し、家庭の話題で盛り上がります。夜8時半ごろになると、親は『もう寝なさい』としっかりと言います。日本と違っ て、テレビやゲームを夜遅くまでだらだらとやらせている親はいません。

アフリカで観察したのですが、ライオンやゾウの親は、子どもが自活できるまでしつけて独立させています。人間の親はそのことを忘れたのかもしれません。動物も人間も、食卓のしつけで始まり、しつけで終わるのです」

このしつけがこれまでの日本人のバックボーンになってきたのだと思います。しかし、いまや食生活の変化と「躾」の喪失に日本人の堕落の始まりがある のではないかとさえ思います。テレビ番組で料理を食べる番組が多いですが、ゲストでも箸の持ち方が出来ていない人が多いようです。ゲストがたとえ美人で も、これを見ると私はゲンナリでお里が分かるような気がします。

そして、こう続きます。

「日本の食糧自給率はカロリーベースで40%しかない。フランスの自給率は130%、ドイツは91%、豪州は230%もあり ます。驚くなかれ、日本は毎年約2180万トンもの残飯を出しています。家庭から出る残飯だけでも1000万トンを超えます。世界では1日で約2万 5000人も餓死しているわけですから、無駄な残飯を節約して、その分の食料を援助に回すことはできないのかと思いますね。ノーベル平和賞を受賞したケニ アのワンガリ・マータイさんが提唱しているように、みながもっと”モッタイナイ”意識を身に付けることが大事でしょう」

カロリーベースで40%という先進国最低の食糧自給率で、年間2000万トン余もの残飯を出しているという、とんでもないこのパラドックス。ここまで堕落してしまった日本人は、もう神の怒りをかうような気がしてなりません。












2011年4月26日火曜日

「千住ねぎ」の産地を訪ねて







ねぎの中でも最高級品のねぎといわれるのが「千住ねぎ」。

いまでも鍋物屋さんや蕎麦屋さんでなどで愛用される。

このねぎを取り扱うのは築地市場でも大田市場でもない。千住にねぎ専門の市場があるのだ。

ところで千住ねぎの産地は埼玉県越谷市中島で元荒川と新方川が合流する三角州のところにある。

むかしは東京都内の葛飾区や江戸川区界隈にも産地が点在していたのだが都市化の波で追われた。

それにしても中島の産地はねぎ栽培では気候・風土とともに土壌にも適しているのだろう。

ねぎ畑で作業をしている生産者に一人ひとり声を掛けながら話を聞かしてもらっている。トラクターで畑を整地していたねぎ栽培3代目杉山雄八さんに話 が聞けた。杉山さんの畑は道路より低地にあり新方川がよく氾濫すると、水に浸かったということで1メートルほどの盛土をした。その上に鶏糞を入れて畑づく りをされたようだ。

この伝統ねぎもいまではタネがF1になってしまったということを、以前に鈴木清貴さんに聞かされたので、「固定種はないのですか?」と聞くと、まだ 固定種で栽培されている生産者もいますよとのことであった。ガゼンこちらも元気がでてきて身を乗り出すと、「オレも昨年、購入したんだよ」と説明。生産者も 固定種が美味しいということは分かっているんだよと続けた。ただF1なら夫婦二人でも栽培可能だが固定種で栽培となると4人は労力が必要となるそうだ。


杉山さんの自宅で固定種のタネを見せてもらった。

★元蔵ねぎ(秋冬ねぎで、11月から4月までの販売)
★吉蔵ねぎ(夏ねぎ、6月から10月まで)
★元晴ねぎ(春ねぎ4月初旬から5月初旬)

すべてこの地のねぎ生産者の先覚者の名前から命名されている。

しかし、もう自家採取する生産者はいないので種苗会社の管理となった。種苗会社ではこうしたタネの採取をオーストラリア、ニュージーランド、チリ、イタリアなどで行っているのだ。

杉山さんは農協のグリーンマルシェの直売所でも販売されているが、固定種を復活することはできませんかと問うと、「来年は5畝ほどに元蔵ねぎを播種し てみるよ」という答えが・・・。そして千住ねぎではなくて、越谷ねぎのブランドをこの固定種で高めていく必要があるなということであった。






2011年4月25日月曜日

飛躍する万果グループ

充実してきたフルライン・サプライヤーとしての機能



全国卸売市場の仲卸は、店舗数が激減しそうな気配である。とくに果実の仲卸が顕著であるようだ。


■写真:中川恵次 万果グループ代表

果実の市場経由率は平成16年の統計で 49%とついに50%のシェアを割り、その後もシェアダウンが続いている。そうしたな かでひときわ意気軒昂な果実の仲卸があるのだ。

大阪のマンカ流通グループである。

本部としてはマンカシステムサービスがあり、仲卸店舗としては 大阪市中央卸売市場・本場を拠点に万果があり、大阪府中央卸売市場でもマルマンという店舗展開。さらに新三協食品流通センター、浩栄、三協、ジェイアンド エフ、ココロ、ニシムラでフルラインの対応をするマンカ流通グループ(中川恵次代表)が形成されている。

このようにして流通センター、運輸部門、小売部門、花き事業などを展開しているのである。大手量販店、生協などへのフルライン・サプライヤーとして発展してきた。


私 は長年、同グループをウオッチングしてきたが、フルライン・サプライヤーとして商社的機能を装備したという意味で、おそらく日本一の仲卸だろう。

他の仲卸の追随を許さない。


■万果本社ビル


人材も各社にサムライたちが育ってきた。東京・大田市場にだってこうした仲卸はいない。

これから規制が緩和され流通が激変する なかで、同社の存在は大きな意味を持ってくるだろう。

かつて大田市場、大手仲卸の若手経営者を引き連れて、大阪の同社を訪問したことがある。大田市場では神田市場の伝統を引き継いできただけに日本一の機能を装備していると思っている。これではいかんということで大坂市場を案内したのである。

そのとき15名の同行者が異口同音に発した言葉が「マンカ流通グループはもう仲卸ではなく、商社ですね!」ということであった。


同グループの歴史は川勝文次さんが個人商店として営業されていたものを、昭和39年12月に株式会社万果として創業されたのがスタートである。

続いてバナ ナの自由化に対応して昭和40年、場外の摂津市に3人の協同で三協が設立され、これが発展して新三協食品流通センターとなった。

社長も創業者の川勝文次さんから、森栄一さん、磯部誠治さん、中川恵次さん、そして同じ姓だが血縁関係はない中川哲夫さんとバトンは続いている。


いまでは川勝文次さんの個人商店時代を支えた役員は中川恵次代表お一人となった。創業者、川勝文次さんの先見性はだれしも高く評価するところだ。

そこで中川代表にどんなお人でしたか訊ねると「仕事中はとても厳しい方でした よ。しかし、いったん仕事を離れるとじつに温もりがあり、また私欲のない方でした」とのことで「私は命日のお墓参りは欠かしたことがありません」と創業者 の遺徳を偲ばれている。

それにしても昭和40年代初期に、仲卸が商社的機能をめざして場外に進出するとは大英断であったのだ。

東京の神田や築地市場で場外にセンターを作ろうなどという発想をした仲卸はどこにもない。ところが大手量販店対応をするならセンターなくしてできないのである。昭和40年代というとまだ八百屋の勢力が相当あったために一般的には考えなくてもよかったのである。そして場外に出るとノウハウが全く違ってくるのだ。商社的発想を取り入れていかないといけない。

水面下では流通が大きく変わろうとしているのをどう読みこなすかが勝負どころである。仲卸だけではない。卸だって同じだ。この対応を誤ったために名門の卸が格下の卸に買収されたところはいくらでもあるのだ。

いまでは地価高騰で用地の確保だってままなら ないのだ。まだ多くの仲卸が市場の中でしか仕事をしていない。それは待ちの仕事である。市場外に積極的に営業活動できる仲卸がいないのだ。たとえば、築地 市場の仲卸などはまだ金の座布団に座ったままの商売である。これからは市場に仕入れに来ない見えない顧客に、どう営業を展開していくのかが勝敗を決する。

そうした意味でマンカ流通グループ発展のカギは、市場外の流通センターの存在が握っている、といっても決して過言ではないだろう。







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2011年4月24日日曜日

取引をする前にまず人間性を磨いておこう!


長崎・五島の野菜の移出業者があるご縁で大坂市場の仲卸と取引を始めた。

この仲卸の専務は先代の社長に仕えた真面目な仕事人であった。2年くらい取引が続いて慣れが生じてきたころ相場も低迷した。そのとき移出業者は我慢できなくなり同市場の別の仲卸と浮気をしてしまった。

しかし移出業者は大坂市場に足を運んだことがなかったために現場の様子が分からない。ここに大きな落とし穴があった。荷物は市場の同じ土間に届くのである。

その専務が気付かないわけがない。違う仲卸にも送ったという連絡があればまだ救われたのだが、こういう時は人間ナイショで行うのが常である。

一生懸命、この専務が取引を育てようと努力したのがこれで完全に方向転換。当然である。結局のところこの移出業者は二頭を追えなかったことは言うまでもない。

取引は崩壊し移出業者の評判まで落としてしまった。これまでこうした事例を何回目撃してきたことか!取引失敗事例集の本が書けるほどだ。いやほんとにこれまでの失敗事例をまとめておこう。

大分の日田にとても素晴らしい日本梨を栽培する生産者がいた。東京の有名デパートのバイヤーがその生産者に目をつけ日参した。やがて取引が始まった。そこへライバルの大手スーパーのバイヤーもやってきた。そうした事情を理解できる生産者ならまだ賢いのだが、その生産者は有頂天になりそちらとも取引を開始した。結果、どちらのバイヤーも手を引いてしまったのだ。こうして自分のポジションを失くしてしまう生産者も多いのである。

結局のところ商道徳がわかっていないために商売が発展していかないのだ。こうしたことは世の中に蔓延しているのではないだろうか。取引をする前にまず人間性を磨いておかねばならないだろう。

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2011年4月23日土曜日

盛り上がれ!板橋市場の風評被害産地支援バザー

東京都中央卸売市場・板橋市場」では23日午後1時から風評被害にあっているとされる福島・茨城・栃木・群馬・千葉の生産物を販売するイベントを開催した。

あいにく横殴りの雨が降るなかで消費者の出足は悪かったものの支援体制の輪が広がった。5月にも実施される予定。

これは板橋区、板橋市場協会、東京豊島青果、東京富士青果が合同で企画主催されたものである。

首都圏の中央卸売市場でこうした産地の支援活動をしていけばかなり大きな勢力となっていくだろう。市場は国内産地あってのものだ。市場はいまこそ産地支援に立ち上がろう! 



2011年4月22日金曜日

メロン販売を考える

日本農業再生









農業が大好きだ







 茨城・水戸に住む友人がアンデスメロンを送ってくれた。いつもなら農協のメロンであるのだが、どうした訳か今年は岩崎農園 のものだった。

不思議に思っていたらメールが届いた。技術力のある篤農家の農協離れが起こっているのだという。納得である。

この生産者は海外からの研修生も受け入れていて、特定の顧客を掴んでいるのだという。

コメもアイガモ農法を取り入れ、すでに23年産コメの販売受付もしているそうだ。立派なものだ。

収穫カードとともに中に入っていた岩崎農園のチラシは「土にまみれた子供のころのなつかしい味がする」ふれあう百姓。おやじのつぶやき。


写真の合間 に詩が書いてあった。味は格段に美味しいものであった。


農協のものは確かに無難ではあったが、個性的という感じがなかったのだ。このように篤農家ほどいま農協を離れ て自前で販売を展開している。




『農業が大好きだ』





百姓になって三十余年
毎年毎日、

天気と土と作物との話し合い

なかなか思いが通じない

試行錯誤の連続で

いまだおれの作物未完成

みんな生きているんだもの

いつか必ず作ってみせる

今日も顔じゅう粒の汗

こんな俺の作品だけど待ってくれる人がいる






こうした手紙を添えることで、農協ではできない温もりのある訴えをしているのだ。


大型共販の大量流通はすでに飽きられている。どこのスーパーも同じ商品を販売していたのでは個性がなさすぎる。売上不振にそのことがはっきりと出ているではないか。


私はこの百姓と自分のことを自信をもっていう人がとてつもなく好きだ。ジャズ・サクソフォン奏者の坂田明さんがどこかで言っていた。百姓と自己紹介できる人が羨ましいと・・・。自分など「サクソフォン吹いています」と言ったって迫力がないと仰る。八百屋も「青果店」というようになってから、急激に店舗数が減少してきたようだ。



それに比べて「百姓してます」は迫力が違うのだそうだ。私は坂田明さんのサクフォンが奏でる「ひまわり」に魅了されているのだが・・・。

いまは閉店したが銀座8丁目・千疋屋に行くと、静岡・温室組合のアールスメロンが桐箱に2コ入っていて2万円とか3万円という時代もあった。バブルで成金 趣味の結婚式場、高級料亭での需要があったからだ。もう帝国ホテルでの結婚式でさえ、デザートにアールスメロンには拘らないだろう。雑メロンでも結構 美味しいメロンが出てきたためだ。


なにも夕張メロンにご祝儀相場とはいえ100万円も出す必要はないのだ。それよりも市場がしなければならないことは、通常の取引で買参者に買い叩かせない努力である。


★【この稿は2005年ソネブロに掲載したもの】







後日談:

この記事を千葉に住む岩崎農園の娘さんがたまたま読んでくれまして、「このメロンは私の実家のものです。

栽培している父はパソコンをしませんのでこの記事を見てないですが、消費者がこうした思いで食してくださるのがよく分かりました」との書き込みをくれました。(感謝)

ほんとは能力ある市場ならこうして離れていく生産者をいかに束ねていくかが決め手になるわけです。

ところがこうした努力を市場はしてこなかったから、生産 者が仲間をつくりネット販売を開始しているわけです。

市場に仕入にきてくれるお客だけの対応では市場に来ないお客さんのことは分からないのです。

もうこれ からはネット対応もできないような市場では産地にも買い手にも相手にされなくなるでしょう。














 

2011年4月21日木曜日

緑提灯:店で食べる、という応援があります

大震災にひるまない!緑提灯「三方よし」でガンバル!
街に出よう!旅に出よう!/緑提灯応援隊



東日本大震災・原発事故よる風評被害・計画停電や節電により、飲食店のみならず日本の食を支えて来た生産者のみなさままでもが厳しい状況におかれています。4 0%まで落ちた日本の食料自給率を少しでも向上させようとするボランタリー活動の「緑提灯」は4月2 3日に満6年となります、いまこそ自粛ムードに負ける事なく「食べること、飲むこと、楽しむこと、交わること」で被災地を応援し、日本の元気へと繋がっていけるよう願い、キャンペーン「街に出よう!旅に出よう!/緑提灯応援隊」を実施いたします。

【実施内容】

ポスター「お店で食べる、と言う応援があります」を全国緑提灯店に掲示します。震災に負けずに元気に営業をしていただき、応援隊(お客様)には美味しい物を召し上がっていただくキャンペーンです。
ur l : http://midori-chouchin.jp/controller/information.php

■期間

多くの方が復興を実感出来るまで継続します。
*緑提灯応援隊活動案内 : 《緑提灯なび》リリース
緑提灯応援隊の有志によって、「緑提灯繁盛会(正式名称:緑提灯の商売繁盛による日本の食環境改善を目指す会) 」が設立され、「緑提灯なび」をリリースいただきました。全国緑提灯店の「自慢の一品」などのメニュー情報をデータベースとして蓄積・公開していただきます。生産者、店主、お客様が「食べ物や飲み物」という共通のことばで繋がります。

url : http://midorinavi.jp/aboutus.html

■お問い合わせ先

緑提灯事務局 緑提灯繁盛会

水島明  村野信一
電話:090-3540-5403、FAX:029-852-1921 電話090-3479-1208 FAX03-6914-7331
※ 三方よし:近江商人の活動の理念を表す代表的な言葉で「売り手よし、買い手よし、世間よし」の
精神に由来します。

◎ ポスターの制作・発送には、(株)ぐるなび様のお力添えを頂きました。url: http://www.gnavi.co.jp


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2011年4月20日水曜日

農協共販はどこへ行く



 日本農業再生










主力産地を中心に北海道のホクレンから沖縄の沖縄県経済連まで、園芸部長に「将来、本格的に産直に取り組みますか?」というテーマで取材して回ったことがあります。産地間競争が盛んだったころです。

なぜそうしたテーマに取り組んだのかというと、そのころ共販体制に組み込まれない生産者が、組織を離れアウトサイダー的動きで産直に取り組むという動きがあり、農協系統ではそうした生産者の農協離れをどうして防いでいくのかということを聞きたかったからです。

ところが異口同音に返ってきた言葉は、「卸売市場制度は魅力的」「経済連を窓口にした産直には取り組めない」ということでした。

そ れは無論、「指定産地制度」などが「卸売市場制度」とリンクしていてアウトサイダー的行動はとれなかったこともあります。つまり制度が見事に機能していたからです。産地は市場に無 条件委託販売をするが、それは市場という信用力を担保にしていました。こうして青果物の流通では大型産地、大型市場、大型量販店という流れが整ってきました。

大型流通を可能にしたのは 量販店が成熟期を迎えていたからです。

む ろんホクレンのように市場出荷分と加工食品のように分けて整理して使い分けているところもありました。市場流通は力関係で決まります。長野県経済連の ように共販額が1000億円ほどもあるところは、夏場の最盛期には日量5億円ほどを出荷しました。代金回収が卸売制度のもとで自動的に回収できるのですか ら、すばらしいシステムでした。

と ころが、バブル経済崩壊、失われた10年を経ていまでは25年前に私が想定したことがドンピシャリあたり、農協共販に乗れなかった生産者が動き出しています。 ある人は生産者直売所を始め、ある人は農産物加工・直販を始めてだしています。

さらに大きな変化は有機農法、自然農法が評価されてきたことです。

「奇跡のりんご」の存在も大きい。これは市 場や農協ではなくメディアが高く評価してくれました。青森りんごが販売不振で苦労しているとき木村秋則さんのりんごはネットでも販売されて足りないほどです。 木村さんの農業ルネッサンスに挑戦するというコンセプトは素晴らしい。それを可能にしたのがソーシアルメディアの力です。

これまでの結びつきは生産者=農協=市場=量販店という縦の関係でしたが、同じ志をもつ地域を越えた生産者同士のつながりのように横の関係がソーシアルメディアの力で出来てきたことでしょう。たとえば福島の生産者と高知の生産者の交流が簡単にできるようになりました。ツイッターを克明に読んでいくと多くの生産者がツイートしています。ツイッター参加者の数は生産者>量販店>市場>農協という状態です。フェイスブックの参加者の数も同様です。しかもそこに音声、動画が加わります。

こうして考えるならリアル取引の生産者→農協→市場→量販店という大きなプラットホームが機能しなくなってきたことが分かります。市場流通が次第に衰退していることの裏づけです。今後こうした傾向にはますます拍車がかかるでしょう。

卸売市場がこの危機を打破するためには覚悟を決めて必死に産地対策を見直していかないと、ソーシアルメディアを駆使して意識の高まった生産者の流れを食い止めていくことはできないでしょう。いま取り組まないといけないことは販売対策の前に産地対策です。産地とともにという覚悟が必要です。

卸売市場制度が機能したのは、旺盛な需要があり供給不足の時代であったからです。しかし、いまやパラダイムシフトが起こり卸売市場制度が万能ではなくなっているのです。それは長引く大型量販店の販売不振をみていれば納得でしるでしょう。


2011年4月19日火曜日

あなたのまちに眠る特産物をご紹介ください

メジャーでなくてマイナーなものでもいいです。どんどん光をあてていきたい。しかし特産物とは生産量が多いものではありません。

たとえばピーマンが生産量が多いからわが町の特産物ではありませんのでご注意を。ピーマンは全国どこでも栽培できます。しかもタネがF1ならなおさらです。

特産物とはその土地の気候風土が育てるものです

こうした特産物は誰かが保存していかないと、いずれ姿を消します。

各県の農業試験場、農業改良普及所などにはデータとして残っています。これからシーズンを迎えますが「鳥取の砂丘らっきょう」など地元市場でもなかなかまともな情報を掌握できていません。

さらに鹿児島には世界一大きな大根の「桜島大根」があり、また世界一小さな「桜島小みかん」があります。桜島大根は加工用ですが、桜島小みかんは徳島・上勝町の葉っぱビジネスのように販売方法を変えて、料理屋さんなどで使ってもらうといけるのではないでしょうか。

本来ならこうした仕事は市場のセリ人たちが情報を収集して自分たちの仕事にアレンジしたものですが、最近のセリ人はこうした地道な努力をしません。ただ商品を右から左に安いの高いのといいながら動かしているだけです。これまたこうした市場は姿を消していくことでしょう。

現物でなくてもこうした情報を集めていきたいと思います。よろしくお願いします。おらがムラの宣伝でも構いません。よろしくどうぞ!

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2011年4月17日日曜日

伝統文化をいかに守るか

日本農業再生








千二百年の伝統ある和紙の里


清流を利用し手漉き和紙を農閑期の副業として受け継ぐ

 

 









埼玉県・東秩父村の川沿いの農家では、清流を利用し手漉き和紙を農閑期の副業として行い受け継いできた。

この手漉き和紙は「細川紙」の名で知られ、特に江戸開府以来、障子紙や各種用紙類の需要増により、ピッカリ千両と呼ばれる活気を呈し、紙漉戸数も近在あわせて800戸にも及ぶ盛況をみせ、この地方の有力な地場産業となった。

しかし、戦後の生活様式の変化や洋紙などに押され、さらには経済構造の激変から若い後継者が次々に他産業に流出し、その存続さえ危ぶまれる事態となってきた。


そこで東秩父村では、手漉き和紙を地域の誇りとして考え、由緒ある武蔵武士のふるさと、大河原氏館跡付近一帯を「和紙の里」と画し、伝統産業に新たなる光をあて、手漉き和紙の技術の伝承・後継者の育成に努め、併せて地域の活性化を図るため、昭和60年度から和紙の里整備事業に着手した。「和紙の里」は東秩父村と地元商工会の第三セクターで運営されている。

和紙の里は、古くから地域に伝わる木造建築技術によってつくられた8棟の和風の建物で構成されている。昔ながらの手漉き和紙の生産と紙漉体験ができる「和紙製造所」、貴重な資料を展示している「ふるさと文化伝習館」、江戸末期の紙漉農家を移築復元した「細川紙紙漉家屋」、研修や集会などに広く利用できる「研修会館」、茶室を併設した「ギャラリー」などがあり、なつかしい伝統文化に触れることができる。

我が家の子どもも体験学習に出かけた。実際に和紙をすかせてもらう体験をして喜んで帰ってきた。そして後日その記念すべき和紙が届いた。そこに一筆、小学生を対象とした毛筆書きの手紙が添えられていたのだ。心温まる文面であった。


「豊かな自然と伝統の和紙の里からあなたの和紙をお届けします。先日は、和紙センターにおいでいただきありがとうございました。千二百年の伝統ある和紙の里は楽しかったでしょうか。あなたの手ですいた和紙のできばえもなかなかのものでしょう。記念していつまでも大切にしてください。皆さんに、自然に囲まれて生まれ育った和紙のことを知ってもらえることができて、とてもうれしく思います。また、みんなで遊びに来てくださいね。お待ちしています。これからも、体に気をつけて勉強にスポーツにがんばってください。さようなら。東秩父村 和紙の里」


わが「日本農業再生」でも農産物の販売促進に、こうした文面を活用させて貰いたいものだ。ただノボリ旗をおったてて、買ってくださいと宣伝するだけでは余りにも能がない。消費者の心を揺り動かす努力も必要だ。

おいしい手打ちそば・うどんを味わうことができる食事処「すきふね」や、そば・うどんの手打ち体験ができる「体験工房」もある。さらに、滝や池などを配した日本庭園や芝生広場があり、隣接した彫刻の森には、未来へ発展する願いをこめた大小の野外彫刻や展望台もあり、すがすがしい空気を吸いながらのんびりと散策を楽しむことができる。

職員全員が、和紙職人・そば打ち職人として、この歴史と自然を満喫していただけるようがんばっている。 皆様のお越しをお待ちしております。
















2011年4月15日金曜日

ある有能な農協職員の思い出ばなし



 日本農業再生









組織は一人の力でも変わる






かつて北海道のある農協の青果担当者に、素晴らしい営業感覚を持っている20代の若い職員(Aさん)がいた。


農業の将来に危機感を持っていたAさんは、そのころ猛烈に仕事をした。

早朝から車を1時間近く飛ばしては札幌市中央卸売市場に顔を出した。

せりが始まる前に他産地の出荷箱、商品をこまめに見て回った。

せりで実際にどの程度の評価をされるのか確認すると、すぐさま農協にとんぼ返りする。

そして産地回りをしたのだ。自分が確認した市場での状況を生産者に説明・報告して歩いた。

最初、農協の若造職員が能書きを説いても生産者は誰も耳を貸さない。それでもAさんは根気よく産地回りを続け生産者の信頼を勝ち取っていった。


やがて部会が動き出したのだ。


一方、市場にこまめに顔を出すAさんの地道な努力を、市場のみんなが観察していたのである。


仲卸の評価がすぐに上がっていった。

市場というところは、商品とともに人間性まで売り込める絶好の場所でもある。


間もなくしてAさんの産地の商品も札幌市中央卸売市場に出荷されるようになった。仲卸も積極的に購入しAさんを 育ててくれたのである。


こうしてみつばを中心とする促成野菜の産地が形成されていった。


私はいまだかって市場でAさんほど評価を高めた農協職員を他に知らない。


Aさんはある日、自慢のみつばを抱えるとそのまま飛行機に飛び乗った。


めざすは日本一の販売力を誇る東京・神田市場であった。

売り込みに来たのである。


あっという間に京浜市場でもAさんは名物男となった。



しかし産地形成が整うとなぜかAさんは農協を辞めた。



量販店とジョイントし自営業者になったという。その後の彼の消息をフォローしていないが25年前の話である。

札幌の仲卸でもAさんの仕事ぶりは語り草になっていた。


あの旭山動物園を復活させた男たちの熱き想いと一脈通じるものがあるような気がするのだ。







輸入農産物をいかに食い止めるか?

GAP認証や有機JAS認証を受けないとこれからの生産はさらに苦境に立たされるだろう。輸出は考えてないから関係ないではないのだ。

中国を含めた海外農産品が今後、輸入されるときGAP認証を受けてくるからだ。

中国もチャイナGAPを制定、すでに4000農場がグローバルGAP同等性を取得してきたという情報もあります。変わってきています。

となると中国農産物は農薬漬けだとは言えないのだ。

逆にいちばん鈍感なのがいまや日本の生産者だ。GAPやJAS有機認証を受けるのは面倒だし費用もかかると対応していないのが実態だ。

まさに輸入される海外農産品にどう対応していこうとするのかが問われている。つまり、これからは正式にJAS有機認証を受けた生産者がまともに評価を高める時代だ。


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2011年4月14日木曜日

博多万能ねぎはこうして生まれた


https://www.sbu25.com/




 






仕掛け人、杉山勇さんの功績を称えて

東京青果、蔬菜4部・部長であった杉山勇さんは、「博多万能ねぎ」をデビューさせた仕掛け人であることは分かっていた。しかし彼は現役時代、なかなか実情を話したがらなかった。なにせ「博多万能ねぎ」は日本農業賞受賞、天皇杯受賞に輝いていたからという配慮もあったに違いない。実力もないのに手柄を吹聴したがる人が多いなかで、彼だけはそうしたことを拒絶して異彩を放っていたのだ。

(写真:杉山勇さん)

今年はちょうど「博多万能ねぎ」が東京進出を果たして30年になる。「もういいでしょう?」ということで取材を申し込んだら快諾していただいた。2回に分けて、ほぼ12時間に及ぶ取材となった。「入社のいきさつ」から最近の「卸売会社の株の持ち合い問題」、「商社の動向」まで内容は多岐にわたった。杉山さんは30年前を髣髴(ほうふつ)とさせてくれて、「商材開発のノウハウ」、「産地形成のポイント」、「農産物のマーケティング論」はちっとも錆びていなかった。

ともあれ農産物のマーケティングを考える時、「博多万能ねぎ」を超えるヒット商品が出てこないのはなぜか。いま産地形成の仕掛けを作れないのはなぜか。考えさせられる問題ばかりである。そこで商品開発のお手本として、ここでは仕掛け人に焦点を絞り「博多万能ねぎ」誕生の秘話を探ってみた。

もう一つの市場「北口売り場」での決意 

杉山さんは昭和26年、日大農学部を卒業すると神田市場の東印(東京青果の前身)に入社。蔬菜1部を経て4部部長として着任したのが昭和51年。東京青果の伝統ある花形売り場「南」に対して、新しくできた売り場「北」は、「もうひとつの市場」としての気概があり「南」に対する猛烈な闘争心があったようだ。なにせ口先だけではなく、結果的に有言実行を完遂させたのだから・・・。

4部は杉山さんのスタート時の販売額が80億円。辞める時が200億円だから2・5倍の実績を残したことになる。人材では侍(サムライ)も多かった。部の勢いが感じられた。杉山さんが就任早々の課題として取り組んだことは「部の勢いを各県産地に示し、新商材開発で全体のレベルアップをしよう」ということであった。白ねぎ主流の関東で、周囲の「そんなもの、モノにならんよ」という冷ややかな声をよそに彼が取り組んだのは、山本五十六連合艦隊司令長官の「やって見せて、言って聞かせて、やらせて見て、ほめてやらねば、人は動かず」であった。

ところで静岡出身の杉山さんは「静岡でも青ねぎを食べるが、小さい頃に食べたあの美味しさを東京市場に持ち込みたい」と考えていた。出張先の福岡・西鉄天神ホームで立ち食いそばを食べた。あの青ねぎをたっぷりと入れて・・・。その時、そのねぎに閃きを感じた。このねぎを何とか全国区のねぎにしたいと思った。そのねぎは朝倉町周辺で生産されている九条系ねぎの若苗であった。以前、蔬菜1部時代は、朝倉町のきゅうりを販売したことがあったので、筑後川流域で肥沃な土壌に恵まれていた朝倉町界隈のことは知り尽くしていた。

昭和51年、2月の寒い日に杉山さんは初め福岡市農協に、日量20ケースを出荷してもらうことを必死に懇請した。農協では「地元市場向けを分配できない」との弁であった。それを「東京で消費拡大すれば、生産拡大される可能性は大きいです」ということで説得した。「東京では売れない、無謀だ」と判断されていたが粘り強い交渉の結果、やっとオーケーをいただいた。

しかし、露地栽培のため厳冬期には葉先が枯れて商品価値が低下してしまった。そこで策を練り直すことになり止む無く中止となった。だが杉山さんは諦めなかった。「だれも考えないことにチャレンジするのだから、覚悟はしていました。しかし、きっと福岡の生産者のためにはなると信じていました」と当時を振り返る。

以前、朝倉町ではハウス栽培をしていて夏ハウスの残量を見ていたこともあり、ふと朝倉町農協の森部賢一さんのことを思い出し、試験販売を依頼したがそれも続かなかった。そこで同年11月、公民館に集まった生産者を前に、杉山さんは朝倉ねぎの東京出荷の本格的な説得に当たった。引き受けてくれる仲卸も同行していた。福岡県園芸連東京事務所田中一二三所長も同席していた。予め販売先のスーパーも確保してあった。「朝倉のねぎはハウス栽培で商品価値がある。農協共販のメリットを生かし、東京で売れれば所得向上につながり、後継者も出来る」といくら力説しても生産者の反応は鈍かった。「こんなねぎが東京で売れるわけがない」と思っていたようだ。無論、まだねぎ部会もなく、農協はねぎの共販をしていなくて、生産者が近隣の市場に個人出荷していただけであった。

ここに杉山さんが着目したのである

バラバラの個人出荷より共同選果、共同出荷をすれば、輸送上の事故はなくなり、手間、時間が他に生かせると説得していった。そして、やがてここから産地が大きく動き出すことになる。まさに「その時、歴史は動いた」のである。

(写真提供:寺田秀三さん)

仕掛け人東京青果の杉山勇さん、引受人仲卸のファブス、産地側代表が福岡県園芸連東京事務所所長田中一二三さんのトライアングル体制が整っていたのである。また彼は次のようにも言う。「朝倉町農協の若き森部賢一さんに会って彼の熱意を感じた時、これはいけると直感しました」ということで内心自信はあったのだ。杉山さんが投げたボールを、森部さんがしっかりと受け止めた。奇跡的な出会いであった。一般的にはこうした関係になかなか恵まれない。かりに恵まれたとしてもなかなかモノにできないのだ。ここが産地形成での最も大切なところだ。この二人の出会いがなければ、青ねぎはあっても「博多万能ねぎ」は生まれなかっただろう。

「市場の人がそんなに言うのなら、取り組んでみようではないか」と徳永朝幸組合長(当時)が賛同してくれたのだ。この英断が流れを変えた。余名持地区の農家43戸が共同出荷に同意することになった。このときねぎの最低価格補償制度を作った。これが決め手になった。「あの制度がなかったら、みんなやらなかったんじゃないかな。それくらい最低価格補償制度の効果は大きかったですよ」と生産者にはいまでも言われる。こうして昭和51年に東京への青ねぎの試験販売が開始された。

翌年(昭和52年)、部会が正式に出来て青ねぎの栽培、共同出荷が始まった。「福岡高級青ねぎ」の名称で日量20ケースの出荷が始まったのである。葉先が変色するなど失敗も繰り返した。しかし最低価格補償制度が整ったために、生産者が一挙に増量体制で出荷過剰になり、市場価格は暴落し生産者、市場が価格低迷に苦しんだ。

怪我の功名で消費拡大へ

こうして予定数量以上の荷が出荷されるようになった。しかし、販売先のスーパーは決まっていたものの、関東では馴染みのなかった青ねぎは、予定数量以上かんたんに売れるものではなかった。

そこで杉山さんは「新しい商品を売り出すにはネーミングが大事」だと提案した。「東京では未知の野菜。だからどんな料理に使ってもかまわないから万能で意味があるんだ」、「商品サイズはL M Sでどれでも用途は多い」と畳み掛けた。つまり「煮てよし、生でよし、薬味によし」である。同時に神田市場周辺の食堂でも試食宣伝が行われ、スーパーでも試食販売が行われるようになった。九州出身のバイヤーは喜んで仕入れをしてくれたのだが、店内の反響は芳しくなかった。販売については市場もスーパーも試行錯誤が続いた。

しかしピンチのあとにはチャンスがくるものだ。予定数量10倍以上の入荷で販売価格を下げたため、地元市場への出荷を懇請することを提案した。そしてやっと適正数量に戻り新しい客層も拡大できてきた。予定数量以上の出荷で価格低迷に苦しんだことが、かえって関係者を発奮させ需要喚起につながっていった。いわゆる怪我の功名であった。新商材開発の場合、予定数量以上を急激に拡大して販売を展開すると必ず失敗するのだ。価格が低迷し産地では生産意欲をなくす。そして、いつの間にか産地が消えていくのだ。またどこの卸売会社のだれと組むかも、ものすごく重要である。産地側はこうした調査を疎かにするので新産地が育たないのだ。

一方、博多は大手企業の支店が多くサラリーマンの知名度も高い。博多どんたく、博多山笠など活気溢れるイメージがある。あれこれ検討の結果「博多万能ねぎ」に決定。産地では商標登録することになった。これまでのネーミングでは習慣として品種名をつけていたのだ。そこを商品名としたことは先駆けであり活気的なことであった。その後、デコポンなどが続いてきたのだ。

こうして商品名は付けられた。しかし鮮度問題が残る課題であった。福岡から東京までトラックで35時間。荷姿はダンボール箱、束は裸のまま。どうしても傷みが出る。当時の杉山さんのメモには「到着時の品質をよくするため森部氏は寝食を忘れ、あらゆる輸送方法(ガス輸送、低温輸送)を実験した」と記してある。収穫時間を変えたり、冷蔵トラックで輸送するなど産地はずっと鮮度保持に取り組んでくれた。

いやはや失敗が成功のもとになるとはこういうことだ。産地側では「どうしても東京へ出荷しなくてはならない荷物に積み残しが出て、急遽航空貨物で送ったら着荷状態がとても良かったのである」以後、空輸実験を繰り返し、昭和53年から本格的に輸送手段が飛行機に切り替えられ、「フライト野菜」としての先鞭をつけた。そして「空飛ぶ野菜」の時代が幕を開けた。

日本航空のJALマーク使用も意表をつくアイデアであった。こうした交渉の努力は、福岡県園芸連東京事務所所長の田中一二三さんである。「博多→東京90分」近さ、速さをアピールした。飛行機がステータスの高い時代に、JALのシールを貼った「フライト野菜」は鮮度のアップと同時にねぎに高級感を与えた。日本航空のスチューワデスが、博多万能ねぎを抱えたポスターをご記憶の方もあるだろう。心憎いばかりのポスターであった。鮮度、JALとの信頼関係も大いにアピールできた。

(JALカーゴのカタログにも掲載された)

産地では容器の材質の研究、予冷施設の導入とさらに鮮度保持を追求し、発砲スチロールの容器に変えた。こうして農協の迅速な対応で、品質は次第に向上していった。また100グラム一束として、小売店価格を百円と設定して、市場取引を「競売」から「予約相対取引」中心に据えていったことも特徴である。この予約相対取引は、当時は東京青果だけが取り組めた取引方法であった。とは言うものの、売れ残った箱が現場に積んであったこと、担当者が箱を担いで仲卸の店舗を一軒、また一軒と回って束にばらしてまで売り歩いたこともあった。担当者が売り込んでいくぞという意気込みで取り組んでくれた。翌週の入荷予定数を割り振りしていたのである。また売れるかどうかも分からない時に、販売に協力してくれたスーパーのバイヤーの熱意があったことも忘れてはならない。どんな商品でも販売戦略の基本は「売り込んでいこうとする熱意があるかどうか」が勝負を決するのだ。

53年1月、農協ではハッピ姿の婦人PR部隊を上京させた。本格的なセールスプロモーションが開始されたのである。「万能ねぎ部会」の若い主婦、朝倉町農協の女子職員ら八名で編成された。杉山さんはこうした女性の目覚しい努力があったことを、いまでも高く評価している。

彼女たちは朝が早い神田市場に出勤。活気溢れる市場内で仲卸業者、小売業者に九州弁丸出しで呼びかけ、万能ねぎを使った味噌汁を試食してもらった。みどり鮮やかな万能ねぎのチラシも配った。一方で彼女たちは競合産地の荷姿、包装材、ラベルなどのスマートさを市場でノートに記録した。

また料理店を借り切って新聞、テレビ、料理雑誌、専門誌などマスコミ関係者を招待し、酢味噌、寄せ鍋、チリ鍋、湯豆腐、親子丼など15種類の「万能ねぎ献立料理」が作られた。調理方法の宣伝を兼ねた試食会を展開、たいへんな好評を得て彼女たちは大いに自信がついたようだ。都内、千葉、神奈川などのスーパーの店頭で試食宣伝即売会も実施した。その店舗数は第二次、三次と続けて百店に及んだ。関西や九州出身の主婦たちは懐かしがって群がって買ってくれたのだ。ようやく「博多万能ねぎ」は世間に認知されだし、消費拡大へとつながってきた。怪物東京のマーケットは動き出すと、地方にない凄い消費力があるのだ。


日本農業賞、天皇杯受賞に輝く

産地から消費地に試食宣伝にきて収穫があるのは、競合産地の動向を肌で感じることと、一方で自分たちの反省をする必要を現場では体験させられることだ。婦人部の面々は荷傷みを発見しては、荷積みの方法を研究する必要があることも体験的に理解できた。生産者によって品質格差があることも肌で感じた。つまり品質向上にもっと努力する必要があることを体得した。「ラベルの色彩とデザインが良くない。黄色のラベルでは、ねぎの青みをさめさせ鮮度がよくない印象を与える」等の意見は女性らしい感覚であった。そして産地に帰るとすぐに改善されていった。生産意欲と消費拡大が運よくマッチングしてきて、相乗効果が出てきたのである。

さらに、こうした現場でのセールスプロモーションを体験したことが、次へと昇華していった。新商品を販売するのにはいかにマーケティングが大切か、 PRが必要か、広告代理店にメーカーの事例を話してもらい、広告に対する生産者の理解を促した。広告とは広く消費者に認知させるということだ。そしてラジオ、テレビCM、料理コンテスト、シンポジウムとマスコミを媒体にしたPRを積極的に行い、消費者に「博多万能ねぎ」を認知させ、農産物もブランド商品になり得る例を示したのである。

博多万能ねぎが旋風を巻き起こすと、さらに青ねぎ栽培が各地で盛んになってきた。しかし先行投資をしてきた博多万能ねぎは、やはり価格的にも他産地の追随を許さないようだ。また産地では新たな産業導入よりも、あくまでも農業再生のために博多万能ねぎの共同出荷体制を拡充し、地域住民の商品選別への協力を得るとともに地域に雇用の場をつくり、産地が活力を得て産地形成に大きく貢献したことを見落としてはならないだろう。

ついに「博多万能ねぎ」は昭和61年、第15回日本農業賞受賞、第25回全国農林水産祭で天皇杯受賞に輝いた。博多万能ねぎが首都圏にデビューするには、こうした弛まぬ努力があったことを忘れてはならないし、これからの商材開発のお手本となるであろう。

(写真提供:寺田秀三さん)

昭和51年、杉山さんが不退転の決意で産地で出荷要請の演説をぶった時、だれもこんなに早く30億円の大商材に育つとは思わなかったに違いない。「たかがねぎ、されどねぎ」だ。こうしてみると、いまさらながら卸売会社の役割がいかに重要かということが分かる。市場には新商材開発のヒントが無数にある。その地下鉱脈を掘り当てることができるかどうかは、その人の資質とやり遂げるという執念、それに人間同士の熱き交流が育んでくれるのだ。

巷間言われることだが「打つ手は無限、需要は創り出すもの」という言葉とともに「博多万能ねぎ」の30年を振り返ってみた。大切なことは途中で挫けそうになっても、なおやり遂げる執念を産地とともに、消費地の卸売会社、スーパーが共有することが大切なことである。そうした努力なくして新商材は育つものではない。平成7年4月、朝倉町農業協同組合(後年、甘木、朝倉、杷木の農協が合併し、筑前あさくら農協となり、部会も合同した)万能ねぎ部会では記念碑として「博多万能ねぎ里碑」を建立した。そこに杉山勇さんの功績もしっかりと刻み込まれている。




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*この稿は平成20年にソネブロに掲載したものですが、その後も「博多万能ねぎ」をマーケティングで超えられるものが出現していません。もう一度、光を当てたくてリバイバルさせました。

青果物の鮮度保持へのアドバイス

~3作用「呼吸作用、蒸散作用、エチレン作用」を考慮して~


寺田 秀三
福岡大同青果株式会社 コンプライアンス室兼特命業務担当部長


昨年の炎暑のなか「アグリコラボいとしま」と題した第一回目のワークショップが九州大学伊都キャンパスで開催されました。主催者は糸島農業産学連携推進協議会という少し堅そうなネーミングの団体。

糸島郡志摩町でハーブを栽培している久保田さんは、日本農業大賞天皇杯を受賞されるほどの凄腕。福岡県内はもとより全国的にも有名な生産者。この協議会の会長を務める久保田さんとは、20年以上の付き合いをさせていただいているというご縁から、私も話題提供者として参加させていただきました。

テーマは「鮮度保持」ということで、生産者、流通業者、消費者、研究者の四者がそれぞれの立場から「鮮度」について意見を述べ、それに対して参加していただいた皆さんから質問などを頂戴し、問題を考えていこうという趣旨でありました。

そこで鮮度について考えてみます。

青果物の鮮度を考えた場合、収穫時を100とすると、その後は必ず低下します。

■原因の一つ目は呼吸作用。

収穫後、水分や養分の供給がないのに呼吸作用だけが活発に続くので品質劣化が進むのです。なかでも鮮度劣化が激しいのがスイートコーン。市場では収穫した翌朝に卸売しますが、その日の内に小売店で販売していただかないと鮮度劣化が著しく進みます。

「ブロッコリー・ほうれん草・アスパラガス」なども呼吸作用の影響を受けやすい野菜。「じゃがいも・玉葱・さつまいも・にんにく」などの土物類は呼吸量が少ないので鮮度劣化は少ないようです。

■二つ目は蒸散作用。

野菜は約9割が水分なので、重量的に3~5%の水分が失われると葉に萎れ(しおれ)がでます。さらに進むと色が変わるなど、目で見て分かる状態になります。

■三つ目にエチレンという気体の植物ホルモン。

果実に多いのですが、リンゴが出すエチレンガスはキィウイの熟度を進めます。輸送するときや保管するとき、青果物の組み合わせが悪いと熟度が進み、過熟させてしまうことがあります。

というわけで、「呼吸作用・蒸散作用・エチレン作用」の三点が「鮮度保持」の大きなポイント。

■もう一つありました。収穫後の野菜は横にすると上に立ち上がろうとします。

人の手により土から離されても、なお成長しようとします。そこで、成長点が上を向くように、段ボール箱の中に立てて収納し、そのままの状態で輸送・保管することが望ましいのです。

青ねぎや軟弱野菜である「ほうれん草・シュンギク」なども立てて輸送し、市場の冷蔵庫でも立てて保管します。青葱などは横にすると、根元が曲がってしまい、鮮度も低下し、見た目も悪くなります。

ところで、これは収穫後ではありませんが、仙台に「曲がりねぎ」という白葱があり、あえて曲げることで旨みを引き出す栽培方法もあります。

野菜の生理活性や蒸散作用、成分変化などは低温によって効果的に抑制されますが、野菜の中には、低温によって変質、腐敗などの低温障害が発生するものがあるので要注意。

「じゃがいも・さつまいも」などの土物、それに生姜は風邪をひくといわれますので、常温で保存してください。バナナも冷蔵庫に入れたら風邪をひきますから注意が必要です。

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2011年4月13日水曜日

全国に拡大する地場産応援の店「緑提灯」

遊び心から始まった素晴らしいアイディア 

飲食店の軒先に赤提灯ならぬ緑提灯がぶら下がっているところをご覧の方もあると思います。

この緑提灯には「地場産品応援の店」と書かれています。国産の食材を多く使っている店ですよという目印です。2005年から緑提灯の普及活動は始まり、2010年1月末現在、北海道から沖縄までの全国で2925店が緑提灯を掲げて国産食材使用の支援をしています。

このアイディアの発案者は元・北海道農業研究センター所長をされていた丸山清明さんです。そこでオピニオン第16回により丸山さんの発案のいきさつ・導入経過をみていきましょう。

導入のいきさつはこうです

丸山さんが北海道に赴任されたのがきっかけでした。『地元の旨いものを食べようとスーパーへ鮭を買いに行くとチリ産のものしかない日があったり、居酒屋でも道産の酒がなく、秋田産や新潟産しかないことがあった。食料自給率200%の北海道がこのような状況だった。

そこで地元の食材を使った料理が食べられるお店の目印として、緑色の提灯をかかげたらどうかというアイディアが浮かび、同僚と同じく食べることが大好きな友人が賛同してくれて、美味しくて安心できる国産の農林水産物を食べたい仲間うちの遊び心として「緑提灯」を始めた』そうです。

新商材開発においても、ヒットを飛ばしたいということで取り組むことより、「遊び心」から出発して大きな発展をしていくケースが多いようです。

緑提灯は、FOOD ACTION NIPPONアワード2009にて、コミュニケーション・啓発部門で最優秀賞を受賞しました。

詳しくは、ここをご覧下さい。

仕組みはこうです

カロリーベースで国産食材の使用量が50%を超えるお店で緑提灯を飾れることにしました。店主の努力を反映させたいと考え、国産食材の使用率が60%、70%と増えるごとに店主の自己申告で提灯の星印を増やせる。コショウなど、100%海外輸入の食材もありますので、星5 つの90%でMAX。

精進料理を出すお寺、保育園でも導入されています

緑提灯を掲げてくれているお店のなかには精進料理を出しているお寺や食育活動をしている保育園もあります。これまでも地元の食材にこだわってはきたが、自分でアピールするのは恥ずかしかった店主さんも、「あの緑の提灯はなに?」とお尋ねになるお客さんの言葉をきっかけに食材談義に花が咲くこともあるようです。緑提灯のお店にたまたま居合わせたお客さん同士で、店全体が食料自給率談義で盛り上がったりすることもあるでしょう。

冷凍ギョーザ事件をきっかけに爆発的に増えている緑提灯のお店ですが、緑提灯が増えることで、消費者が食料自給率について考える機会が増えると同時に、「国産食材を求めて緑提灯の店を選ぶ」という具体的な行動が取れるようになります。そういったお客さんが増えると、店主が国産食材を真剣に探すこととなり、食材の素性の透明化や、生産者と消費者の距離が短くなるという狙いもあります。

飲食店は全国に約50万店ほどと聞いています。緑提灯の店を約3000軒と考えると0.6%ほどです。これからもっと増えていき、世のお父さん方が、「ちょっと食料自給率に貢献してくるよ」と気軽に飲みにいけるようになるとよいのではないかと思っています。

なかなかいいアイディアではありませんか。私もお酒を愛するものとしてこの趣旨に賛同します。

その後の「緑提灯」をサポートしている水島明さんの談話
■2003年のいつの日か、(独)農業・食品産業技術研究機構の作物研究所長の丸山さんと同本部総合情報管理部長に就いていた私とは、例によって酒盛りをしつつ他愛ない話し、「高尚な話し」で盛り上がっていました。・二人とも農水省出身であり、同省系の独立行政法人に勤務していましたので、食糧自給率アップについては常日頃の話題でした。
■特に丸山さんは稲の品種改良の研究者であることから業務としても当然の使命としている課題です。・この時、業務や仕事としてでなく、遊び心から、しかも、呑兵衛の親父たちが美味しいお酒を飲みながら、地場/国産食材を主にした肴を楽しみつつ、自給率アップに気軽に貢献できる方法について、談論風発しました。
■この時、「緑提灯」のアイデアが出たと丸山さんは言いますが、実のところ、私は翌日目覚めたらすっかり忘れていました。
■その後、2004年に丸山さんは北海道札幌市に転勤になり、緑提灯運動を始めました。(このあたりは、緑提灯ホームページやマスメディアですでにご存じのとおりです。)
■その後、丸山さんは東京勤務を経て、2007年につくば市の(独)農業・食品産業技術研究機構の理事に就くと同時に、同中央農業研究センター所長に就きました。
■再会した際、彼は緑提灯を現実の活動として動かし出したことを告げましたので、私は、一も二もなく賛同し、研究者/管理者として多忙な彼を支える裏方として、活動に参画してきました。


緑提灯コミュニティ

★緑提灯応援隊モミュニティ