2011年4月9日土曜日

江戸は世界最大の都市でエコ社会

17世紀の江戸は人口が100万人に達し世界最大の都市でした。しかもロンドンやパリにくらべとても清潔な町だったようです。その秘密はリサイクルが徹底されみごとな循環型でエコ社会が実現していたからです。

江戸庶民の一般的な暮らしは長屋住まい。とくに共同トイレは、庶民の排泄物が溜まり、衛生面では一番気を使わねばならない場所でした。しかし、そこは循環型でエコ社会が徹底していた江戸時代のこと、たとえ住民の排泄物とて無駄にはしなかったのです。

ところで100万を超える人々が生活していたため、食料は大変な量を調達しなければなりませんでした。江戸に幕府が開府されたころ、まず徳川直参の家来たちの屋敷や各地大名の江戸屋敷が整備されましたが、各地大名はその食料調達に自らの屋敷内にお国の野菜類を持ち込んでは畑を作っていました。米は地方からの長距離輸送も可能でしたが、生鮮野菜などは江戸で調達しなければなりません。 そして各大名屋敷でも、それらを購入して消費するようになっていきます。 

大名たちの需要を賄うための職人が集まり、同時に周辺には農地も整備され、大名たちがそれぞれの国から持ち寄った各地の野菜の種をもとにして、農民たちが江戸で野菜を作りはじめます。 そうした事情で、江戸には日本全国の特色ある野菜が栽培されるようになりましたが、それらの肥料は、主に農家から出る人糞や、魚の鰯などを絞ったカスが使われました。 それでも人口100万の都市を支えるには、大量の食料が必要で、生産性をあげるためには、ふんだんに肥料を使う必要があったのです。

そこで、江戸に集まった農民以外の人々が排泄する人糞が、役に立ちました。江戸ではそれらを集める 「 下肥問屋 」 という商売が成立しました。集めた人糞を農家に販売していましたし、下肥問屋は、主に長屋の大家さんと契約して、お金を払って集めていたのです。 こうした話を友人にしていましたら、「そうだよ。とくに大奥の糞は川(隅田川)向こうへ運ばれた。現在の江戸川区あたりが集積地だったんだよ」と彼は独自の珍説を開陳してくれました。そうか。小松菜や亀戸ダイコンなどの江戸野菜はとても肥沃な土壌でしかも養分たっぷりで栽培されていたわけだなと合点しました。 ところでパリ周辺の貴族のお城では2階や3階の窓から糞尿がバケツで表の庭へ投げ捨てたられたといわれます。下水道が完備していなかったとはいえ、日本人の感覚ではちょっと貴族たちの生活にはあきれます。

ともあれフランスで香水が普及した意味がやっと理解できました。 作家・開高健さんがどこかに書いていましたが、パリの街角やセーヌ川の橋の下でご婦人が平気で用をたす光景をみられたそうです。日本のマスコミはそうしたことをちっとも報道していないとお嘆きでした。これではセーヌ川河畔で愛を囁くアベックはたまったものではありませんね。 いやこれは遠く江戸時代の話ではありませんでした。私の育った九州では各家庭の畑で昭和30年代後半までこうした光景を見かけました。畑に穴を掘って糞尿を入れそれを発酵させて畑の肥料として使用していました。むろん油カスも使用しましたが。

しかし、戦後占領軍にとってはこうして栽培された野菜を食することが悩みの種でした。米軍は40万人の駐留軍を投入したといいます。そこで問題となったのが米軍の食料調達です。肉やパンは本国から輸入できても野菜は江戸時代と同じことで、鮮度のいいものを現地調達しなければなりません。いまでこそ冷凍技術の発達で、ブロッコリーがアメリカから輸入されたりします。しかし、当時はまだコールドチェーン技術は普及していませんでした。日本では菜っ葉に人糞をかけているというわけです。

そこで米軍はその解決策として、基地の近くの調布に広大なハイドロファーム(水耕栽培施設)を作りました。建設施工したのは間組。同社の100年史にはそのことが記録されています。施設で作業したのは巣鴨プリズンにいた人たち。さすがは米軍です。みごとな実験でした。しかしこの施設はどうしたわけか長く続きませんでした。その原因はいつか腰を据えて調査してみたいと思います。

いつしか野菜の人糞栽培を嫌うことで清浄野菜という使い方がされるようになりました。人糞使用では清潔感がないということだったのでしょう。

ところで清浄野菜が大きく飛躍したのは、1964(昭和39)年に東京で開催された第18回オリンピックがきっかけです。

93の国と地域から5,152名の選手が訪日したのです。関係者、観客を入れると10倍以上でしょう。そのための食材が必要でした。こうしてオリンピック開催で社会が大きく変わりました。ともあれ戦後初めて国際化の仲間入りを遂げたわけですから。

また忘れてならないのは、食の洋風化が進行していったのもこのころからです。それに伴い西洋野菜の需要が急速に拡大していきました。さらにその年にスーパーのダイエーが関西地区から首都圏に進出したことです。4店舗をオープンさせました。そしてスーパーが雨後のタケノコように台頭してきて、小売業の形態が様変わりしていきました。

築地市場の古老の話によりますと、代々木のオリンピック村に食材配達をしたそうです。オートバイで日に何回運んだか分からないほどで寝る間はなかったようです。

こうしてオリンピック開催をきっかけとして、その前後に産地では化学肥料が投入されていくようになりました。消費が喚起されることによって、産地では農協共販が進展していきました。

一方、平成になり北海道・千歳で自動制御技術をもった大手メーカー傘下の企業が、地元生産者と共同で米軍のハイドロファームならぬ大温室をつくりトマトの周年栽培を開始しました。施設はオランダからハウスづくりの技術者を招いて建設されたものでした。ところがすぐに失敗してしまいました。幸いに私はそこの社長に取材する機会がありました。「なぜ失敗したのか」聞きますと「夏場の高温障害」のためということが分かりました。農産物は生き物です。人工的な制御はかんたんなことではありません。

こうした時代の変遷とともに流通は様変わりしてきました。大量生産、大量消費という流れができてきた矢先にバブル経済が崩壊。経済が後退するなかで、暗中模索が始まりました。化学肥料も万能ではなくなりました。有機栽培、自然栽培の見直しも始まっています。庶民の暮らしもファーストフードではなくスローフード見直しがなされています。

おそらく今年の正月は、景気を反映して旅先の宿より各家庭で静かに迎えられる方が多いことでしょう。食文化見直しのきっかけにしてもらいたい。

ところで昨年の夏、フランスのドキュメンタリー映画『未来の食卓』は環境問題、有機農業を提唱することで注目を集めました。ジャン=ポール・ジョー監督は次回作を福岡県桂川町でも撮影しましたが。

わが国でも昨年、青森県で有機農業で水田作を展開する三上新一さんが天皇杯賞を受賞されました。環境問題とともに有機農業への関心はたかまるばかりです。志ある外食産業の経営者でこうしたことに理解を示す経営者は増えています。これからはソーシアルメディアの普及とともにもっとこうした傾向に拍車がかかることでしょう。江戸時代の庶民の暮らしぶりを再評価して、自然とともに共生していくことを考えていきたいものです。




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