むかし地方の産地に足を運ぶと農協組合長に「神田市場(現・大田市場)の価格形成はよくないですよ!」といわれたこともしばしばありました。つまり、「先取り(せり時間前取引)が多くてホントの価格ではない」という批判でした。
しかしホントにそうだったのだろうか?
ちょっと当時の歴史的な背景もここで整理しておきます。
神田市場が大田市場に移転したのが平成元年5月。いまや秋葉原に神田市場があったことを知っている市場関係者も減り、AKB48の町として変貌をとげました。
ところで神田市場で卸の東印東京青果が設立されたのは昭和22年のことです。そのころの市場は零細多数の出荷者と零細多数の小売業者が会合する場でしたから狭い敷地でも十分でした。
ところで戦後の復興とともに市場が様変わりしたのは、高度経済成長が始まってからです。
産地も戦後の復興とともに昭和23年、農業会が改組され農協が発足。
一方、小売業の覇者・ダイエーが干林で産声をあげたのが昭和25年。そして首都圏初進出が昭和39年のことです。とは言ってもスーパーの進出はまだ未知数で、圧倒的に八百屋の力が数では多かったからです。
しかし現実には食品の小売業はスーパーの進出で大きな変化をしました。そこでこうした時代背景のなかで、日本一の扱い高をする東印東京青果と第二位の東京丸一青果が合併し東京青果となったのが昭和42年。
そして昭和47年、ダイエーが三越を抜き小売業売上高日本一になるわけです。
このように旺盛な需要を背景に、産地でも個人出荷から農協の共販体制がとられていきました。全販連と全購連が合併して全農が誕生したのは昭和47年です。
東京青果が売上高1000億円を達成したのが昭和52年。
さて、ここで冒頭の先取り問題の説明に移ります。
昭和40年代中頃、本格的なスーパー時代を迎えるといち早く東京青果では開発部をつくり量販店対策を講じました。量販店との商談を展開。従来の待ちの姿勢から攻めの姿勢へと進みました。値決めも「予約相対取引」を看板に量販店対策に取り組みました。
スーパー時代を迎えたとはいえ他所の市場ではまだ八百屋の勢力もありリスクの大きな変革には馴染めませんでした。首都圏の卸でも八百屋対応の時代にはとてもいい経営をしたのに、量販店対応がとれなかったばかりに廃業していくところも出現。いま全国の中央卸売市場が衰退している問題もここにあります。
神田市場ではJRの高架線下の倉庫を含めて荷物が一日に3回転、4回転していました。りんごとみかんの出荷が集中する年末は後楽園球場まで借りていました。
こうした状態で一切を「先取禁止」と条例どおりに咎めたら、買い手側にどうして買い気がおこるのですか?
現在、大田市場ではせりにかかるのは全入荷量の2割もないでしょう。八百屋の勢力がそれだけなくなってきたということです。せりが形骸化するのは時代の流れです。
この先取りは現実には産地のためにたいへん役にたっていると理解しないといけないことなのです。
いま政策当局の姿勢はこれから規制はどんどん緩和していきますよ、みなさん各市場で自主ルールをつくり思いっきり仕事に打ち込んで下さいよということです。手数料の自由化もされたわけだし、小さなコンプライアンスに拘るのではなく大きく流通を変えていかないと生産者はもう市場そのものを相手にしない時代に向っています。
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