草原を駆け抜けた少女
長編ドキュメンタリー映画「プージェー」(山田和也監督作品、製作配給:puujee製作委員会)を観た。
上映会の主催:墨田区のすみだ環境ふれあい館企画運営委員会。ラストシーンにセンチメンタルな私としては泣けた。どんな大作にも負けない内容で、こんな感動した映画は久方ぶりだ。
関野吉晴さんも来場され著書のサイン会、トークショウも行われた。私もその著「我々は何処に行くのか」にサインをしてもらい握手までいただいた。
いつもちっとも力まず、自然体の関野さんであるが53000キロを自力で踏破された手応えが伝わってきた。先住民との出合いでは、近くでいく日もテントを張りチャンスを伺う。出会い頭に危険もある。命をなくすことだってあるのだ。「何でも手伝いますので、どうか泊めてください」と言って相手に食い込んでいく。そして何にもお手伝いできないので、子どもたちと遊ぶことになるのだそうだ。
さて、このグレートジャーニーを続けた関野吉晴さんのプロフィールを紹介しておこう。
1949年東京都墨田区生まれ。1975年一橋大学法学部卒業。1982年横浜市立大学医学部卒業。一橋大学在学中に探検部を創設し、1971年アマゾン全域踏査隊として1年間の南米遠征。その後20年間に32回、南米への旅を続ける。その間、現地での医療の必要性を感じて外科医となる。
1993年からは、アフリカで誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸まで拡散していったおおよそ53、000キロの行程を、自らの腕力と脚力だけを頼りに遡行する旅「グレートジャーニー」を始める。
1993年12月に南米最南端のチリ・ナバリーノ島を出発し、8年3か月をかけて、2002年2月10日、目的地であるタンザニア・ラエトリにゴールした。そして2004年7月に、日本人の来た道を辿る「新グレートジャーニー」をスタート、2009年までに3つのルートを踏破した。
草原を駆け抜けた少女
探検家・医師の関野吉晴さんが出合ったモンゴルの少女・プージェー
映画監督(地球交響曲ガイアシンフォニー)の龍村仁さんの映画評を添えておこう。
「この、たったひとりの少女と出会うために、関野は350万年の旅を遡行し続けたのだろう。そう思えるほどこの感動は深く壮絶である」けだし至言であり、さすがは映画監督だ。これ以上の言葉はいらないだろう。
1999年市場経済導入から10年近くたったモンゴル。チンギス・ハーンの時代から守り続けてきた大草原や人々の暮らしにも、様々な変化が現れてきていた。これはモンゴルの草原で起こった小さな、しかし深い出逢いの物語である。
探検家・医師の関野吉晴さんは「グレートジャーニー」の途上、モンゴルの大草原でひとりの少女と出合った。自在に馬を操る少女の凛々しい姿に魅了された関野さんは、写真撮影に熱中するあまり彼女の仕事を不用意に妨げてしまう。そのとき、彼女の声が飛んできた。
「写真撮るなら、こっちに来ないで!」少女はプージェーといった。当時6歳。関野さんの一人娘と同い年だった。50歳の日本人とモンゴルの少女との交流が始まった。
プージェー一家の住むゲル(移動式テント住居)に通ううちに、関野さんは彼女の家が馬泥棒にあったことを知る。市場経済導入後に、馬を盗み遠くの市場で売り飛ばす輩が増えているのだ。馬を奪われることは生活の困窮を意味する。しかし、そんな状況でも一家は関野さんを快く受け入れてくれた。プージェーの母・エチデメネグさんは、別れのとき、アフリカまで旅をするという関野さんに「乗っていって下さい」と馬をプレゼントしてくれた。
翌年、2000年春、プージェー一家を再訪する。そして、プージェーの母親が死んだことを知らされる。落馬して内臓を傷つけ、病院に行ったが、保険がないことを理由に診療を拒否され、事故から12日後に息を引き取った。32歳の若さであった。外科医でもある関野さんはおそらく歯軋りしたに違いない。そして彼はプージェーが日本語の通訳になる夢を持ったことを知る。プージェーの遊牧民らしさが好きで通っていたが、そのことが、皮肉にもプージェーが草原を離れる原因を作ってしまったのかも知れない。しかし、関野さんはプージェーが望めば、日本に留学してもらおうと密かに考え始めていた。
4年後、グレートジャーニーを終えた関野さんは、新しい旅のスタートにプージェーのゲルを選んだ。そして・・・・。
続きはぜひともご自分で観て下さい。とくに私は親子で観てもらうことをお薦めいたします。
お問い合わせ puujee製作委員会tel:fax 03-5386-6700
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