2012年11月6日火曜日

薩摩藩英国留学生・長沢鼎を偲ぶ








 

 サンタローザ

 
 




1983年11月、来日中のレーガン大統領は国会演説で一人の男の名を口にした。長沢鼎、耳慣れない名であった。在カリフォルニア日系人すら「WHO?」ということだった。

そのザ・グレートマンとは、幕末の薩摩藩英国留学生であった長沢鼎(本名:磯永彦輔)。

レーガン大統領がベタぼめの日系ブドウ王は薩摩藩のサムライ留学生だったのだ。・・・・ 


20年前、アメリカで発行されるUS・JAPAN BUSINESS NEWS(現在は廃刊)という日本語で制作される週刊紙があった。その週刊紙に長沢鼎の子孫である方(山路弘行 さん)が寄稿された記事が載った。その記事をご紹介しよう。

















US・JAPAN BUSINESS NEWS(NO861・862号)
October 10/ 1994、 October 17/ 1994
と~くGALLERY
サンタローザ(上・下)
山路 弘行 






(上)
ひょんなことから1991年2月ニューヨークに赴任することとなり、あっという間に3年が過ぎてしまった。もともと国際部門には縁が薄く海外勤務なども考えもしなかったので、正直なところおっかなびっくりで着任した。

とはいうものの、さいわい当行は米国に限っても11州にわたり18か店の店舗網を持ち西海岸から東海岸まで主要な地をカバーし訪問すべきところには事欠かず、せっかくの機会にできるだけ多くの土地を訪れ見聞を広げたいという気持ちもあった。

そのなかで私にとってまず行きたかったのは、母の大伯父にあたる長沢鼎(本名・磯永彦輔)の終焉の地カリフォルニアはソノマ郡サンタローザであった。

1862年生麦事件に端を発し1863年薩英戦争が起こり勝敗は判然としなかったものの、薩摩は彼我の戦力の差を目の当たりに見せられ、早々に英国と和睦を結ぶと同時に富国強兵策に傾斜していった。その政策決定に大きな役割を果たした五代才助(五代友厚)の上申書のなかに英仏への留学生派遣の提案があった。薩摩藩庁この献策を受け入れ、森有礼(後の文部大臣)、寺島宗則(後、外務大臣)、など19名の留学生を幕府の禁を犯し英国商人グラバーの協力の下英国に送ったが、そのなかに最年少の参加者として長沢鼎(当時13歳)がいた。

長沢は1865年4月鹿児島を発し6月ロンドンに入り、8月にスコットランドのアバディーンで中学に入学、1867年生涯師事することとなるトーマス・レイク・ハリスの知己を得、やがてニューヨーク・ダッチス郡に移りハリスの新生兄弟社(Brotherhood of the New Life)の一員として農場他の経営に従事した。1857年ハリスとともにカリフォルニアのサンタローザに移転、ブドウ園の敵地を購入しファウンテングローブ農場(Fountain Grove Ranch)を設立した。

当時、長沢は23歳であったが爾後1934年82歳で生涯を閉じるまでこの地をうごくことはなかった。ファウンテングローブでは長沢はハリスを助けて主としてブドウ酒の生産に力を注ぎ、1892年ハリスがニューヨークに帰った後は名実ともにファウンテングローブの主として、ついには米国における10大ワイナリーの一つにまで育て上げ、当地ではプリンスあるいはバロン・ナガサワと呼ばれるまでになった。その間多数の日系移民を援助し、日本の近代化・日米文化交流にも尽力し叙勲の栄誉を受けている。米国という新天地で一つの確固たる生涯を築いた最初の日本人であったと言っても過言ではないと思われる。

(下)
一昨年われわれ夫婦はサンタローザを訪問して市立図書館でカナエ・ナカザワをキーワードに種々の文献を手に入れ、ファンテングローブに向かった。何の予備知識ももたずに行ったため、サンタローザが鹿児島の姉妹都市であること、同市の協力でオリジナルブランドのワインとしてナガサワワインが造られ鹿児島のデパートでさえ販売されていることなど初めて知った。

ファンテングローブはすでに昔の面影はなく、今は円形レツドバーンが残っているのみで、ほとんどはフゥウンテングローブ・カントリークラブという名のゴルフ場になっていたが、ナガサワガーデンなるものにわずかに長沢の名をとどめていた。

ファウテングローブ訪問の後、長沢の甥、伊地知共喜(1896年より長沢とともに経営にあたった)の子息である伊地知知介氏のサンフランシスコ・リッチモンドの自宅を訪れた。我々はすでに70歳になっておられた幸介氏の歓待をうけ、また幸介氏が多数保管されている昔からの写真の中に私の両親(大正末期米国に勤務していた)が長沢を訪ねたときのものを見つけ、懐かしくもありご夫婦とともに昔話に時を忘れる思いであった。

まだ海外渡航が容易でない時代に、藩命とはいえ13歳の子供が英国に渡り米国で生涯を閉じるまで外地にありながら、終生日本人として日米両国の掛け橋たらんとしたことが、種々の文献にや幸介氏の話からうかがい知ることができ、一人の血のつながった祖先を偲びつつ我々はサンタローザを後にした。









今年1月、アメリカで長沢が英文で書き綴った日記が発見された。その日記にも薩摩藩に帰国せず恩返しもしないことの辛さが書かれていた。

親友、森有礼が駐米大使として長沢に会ったときには、一緒に帰国しようと思ったりもする。また明治末期に島津忠重が士官候補生としてサンフランシスコにきたとき、長沢は土下座して旧主を迎えたといわれる。

しかし、バロン・ナガサワとかプリンス・ナガサワと言われたほどの長沢のブドウ園は彼の死後人手にわたってしまう。アメリカで市民権もとらず生涯独身であった長沢は甥夫婦を日本から呼び寄せ農園を手伝わせていた。



ところが移民法で土地の相続はできず、しかも売上金さえも手違いでほとんど相続されなかったという不運な結末となってしまった。




















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