ラジオでスター的存在である字幕翻訳家・戸田奈津子さん の話が聞けた。
映画好きの戸田さんが大学を卒業したころ、人気があった 職業は女性はスチューワデスか公務員、教師くらいであっ た。
ところが戸田さんはこうした職業にはまったく興味がなか った。しかし字幕翻訳の仕事は男性ばかりの職種であった 。
そこで映画で観た翻訳家・清水俊二さんの住所を電話帳で 調べ、手紙を書いた。
数週間後、清水氏から返事が来て、事務所を訪ねると、「 とにかく難しい世界だから」と諭された。
洋画界へのとっかかりができたのは大学卒業後10年ほど たったころだった。
配給会社からあらすじ作りや通訳の仕事が入ってきたのだ 。この通訳の仕事を勧めてくれたのは当時、配給会社の宣 伝部長だった水野晴朗さんだったそうだ。
そして字幕翻訳の仕事が入ってきた。それでも食べていけ る量ではなかった。
しかし、人生の大転換の時がやってきた。フランシス・F ・コッポラ監督の「地獄の黙示録」を担当することになっ た。
コッポラ監督はフイリピンでのロケが終わると必ず日本に 立ち寄った。そしてコッポラ監督の推薦もあり字 幕翻訳の仕事が本格化した。この超大作は社会的にも話題 騒然となり、各社からの仕事が舞い込むようになった。卒 業後、20年がたっていた。
しかし、戸田さんの性格からして苦節20年という表現は 相応しくない。楽天家のせいだろう。
もう一つ。私はどうしても戸田さんの大変身の話と静山社 の松岡佑子さんがタブってしまう。
J.K.ローリングがハリー・ポッターを書いた時、ロン ドンに住む松岡さんの友人が日本語版権の獲得を勧める電 話をくれたことだ。
静山社は松岡さんの亡くなったご主人が作った出版社で社 会科学関係の本を1冊出版しただけで実績なしの無名の出 版社にJ.K.ローリングは版権を許可したのだ。ひとが 大転換をとげるときとはこうしたものですね。
映画好きの戸田さんが大学を卒業したころ、人気があった
ところが戸田さんはこうした職業にはまったく興味がなか
そこで映画で観た翻訳家・清水俊二さんの住所を電話帳で
数週間後、清水氏から返事が来て、事務所を訪ねると、「
洋画界へのとっかかりができたのは大学卒業後10年ほど
配給会社からあらすじ作りや通訳の仕事が入ってきたのだ
そして字幕翻訳の仕事が入ってきた。それでも食べていけ
しかし、人生の大転換の時がやってきた。フランシス・F
コッポラ監督はフイリピンでのロケが終わると必ず日本に
しかし、戸田さんの性格からして苦節20年という表現は
もう一つ。私はどうしても戸田さんの大変身の話と静山社
J.K.ローリングがハリー・ポッターを書いた時、ロン
静山社は松岡さんの亡くなったご主人が作った出版社で社
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